アントニオ猪木の死去はいつ?79歳で迎えた最期と死因、闘病・生涯を2026年に振り返る

目次

アントニオ猪木さんが亡くなったのは、2022年10月1日午前7時40分。死因は心不全で、79歳だった。死去の背景には、心臓に異常なタンパク質が蓄積する指定難病「心アミロイドーシス」があった。本名は猪木寛至(いのき・かんじ)。プロレス界で「燃える闘魂」と呼ばれ、新日本プロレスの創設者、参議院議員としても知られた人物である。

闘病中も自身のYouTubeチャンネルで病状やリハビリの様子を発信し、亡くなる約1か月前には日本テレビ系「24時間テレビ45」に生出演した。2026年11月現在、死去から4年1か月。猪木さんの最期に何があったのか、病気を公表した経緯、力道山との出会い、モハメド・アリとの歴史的な対戦、政治活動、2023年のお別れの会まで、人生の歩みを振り返る。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】

  • 死去:2022年10月1日午前7時40分、79歳で逝去。死因は心不全。
  • 病気:背景には全身性トランスサイレチンアミロイドーシスによる心アミロイドーシスがあった。
  • 闘病:YouTubeチャンネル「最後の闘魂」で療養中の姿を公開していた。
  • 最後の生出演:2022年8月28日放送の「24時間テレビ45」。
  • 功績:1972年に新日本プロレスを創設し、1989年にはスポーツ平和党を立ち上げて参議院議員に初当選した。
  • お別れの会:2023年3月7日、両国国技館で開催された。

【訃報の真相】アントニオ猪木は2022年10月1日に死去、享年79歳

アントニオ猪木死去

アントニオ猪木さんの訃報が発表されたのは、2022年10月1日。プロレス界だけでなく、スポーツ界や政界にも大きな衝撃が広がった。

所属するマネジメント会社「猪木元気工場」の発表によると、猪木さんは同日午前7時40分、心不全のため亡くなった。本名は猪木寛至。1943年2月20日生まれで、享年79歳だった。

死去の発表では、長く闘病していた心アミロイドーシスが原因として説明された。新日本プロレスも同日、創設者である猪木さんの逝去を公式サイトで発表し、全身性トランスサイレチンアミロイドーシスと闘っていたことを明らかにしている。

葬儀は本人の遺志により家族葬として執り行われ、関係者やファンに向けたお別れの会は後日開催されることになった。

本名は猪木寛至。「アントニオ猪木」として世界に知られた人物

猪木さんの本名は猪木寛至(いのき・かんじ)。1943年2月20日に神奈川県横浜市で生まれた。

プロレスラーとして活動する際のリングネームが「アントニオ猪木」である。190センチ級の長身と強靱な肉体、独特の闘争心、試合前後の存在感によって、日本を代表するプロレスラーとなった。

「燃える闘魂」という呼び名は、単なるキャッチコピーではなかった。試合での激しい闘志だけでなく、政治活動や海外交流、そして晩年の闘病生活まで、猪木さんの人生を象徴する言葉として定着していった。

【死因を詳しく解説】心不全と心アミロイドーシスの関係とは?

アントニオ猪木さんの死因として公表されたのは心不全である。その背景にあった病気が、心アミロイドーシスだった。

ここで押さえておきたいのは、心不全と心アミロイドーシスは同じ意味ではないという点だ。心不全は心臓の働きが低下し、全身に必要な血液を十分に送り出せなくなった状態を指す。一方、心アミロイドーシスは、その心臓の機能を損なう原因となる病気の一つである。

全身性トランスサイレチンアミロイドーシスとは

猪木さんが闘っていたのは、全身性トランスサイレチンアミロイドーシスと呼ばれる病気だった。

アミロイドーシスとは、アミロイドと呼ばれる異常なタンパク質が体内の臓器や組織に蓄積し、正常な機能を妨げる病気の総称である。

トランスサイレチンは、血液中で甲状腺ホルモンやビタミンAの運搬に関わるタンパク質だ。このタンパク質が不安定になり、アミロイド線維を形成して組織に沈着すると、臓器の機能に影響を及ぼす。

心臓にアミロイドが蓄積した状態が心アミロイドーシスであり、心筋の働きや心臓の拡張機能などに障害が生じる。進行すると息切れ、むくみ、動悸、不整脈などの症状が現れ、心不全につながる場合がある。

日本アミロイドーシス学会監修の診療情報や医学的解説でも、心アミロイドーシスは心臓にアミロイドが沈着する病気として説明されている。

猪木さんはいつから闘病していたのか

大阪府医師会がまとめた2022年の記録によると、猪木さんは2015年ごろから労作時の息切れを自覚し、2019年にトランスサイレチン型心アミロイドーシスと診断された。

2020年7月には、心臓の難病と闘っていることを公表。病気による身体の変化や入退院を経験しながら、リハビリを続ける生活に入った。

この病気は外見だけでは状態を判断しにくく、心臓以外の症状が診断の手掛かりになることもある。猪木さんの場合も、長期間にわたる療養が必要だった。

猪木さんの訃報を伝えたスポーツ紙や新日本プロレスの公式発表では、死因の心不全と、その背景にある心アミロイドーシスが区別して説明されている。

【YouTubeで公開された闘病生活】弱った姿を見せ続けた理由

アントニオ猪木さんの晩年を語るうえで欠かせないのが、公式YouTubeチャンネル「最後の闘魂」での発信だ。

かつてリング上で圧倒的な存在感を放った猪木さんは、病気によって身体が思うように動かなくなった後も、自身の状況を動画で伝え続けた。

入院中の姿やリハビリの様子、体調の変化を隠さず公開する姿勢は、従来のプロレスラーのイメージとは異なるものだった。

病床からのメッセージとリハビリの様子

2021年には、腰の治療などによる入院生活やリハビリの様子をYouTubeで発信していた。2021年8月30日には、退院を報告した動画が日本テレビのニュースでも取り上げられた。

動画では、病床から視聴者に向けてメッセージを送り、回復に向けて努力する姿を見せていた。

2022年10月2日には、公式YouTubeチャンネルで「アントニオ猪木『最期の言葉』」という動画が公開された。これは亡くなる直前の9月21日に撮影されたもので、ベッドに横たわった猪木さんが自身の生活や闘病について語る内容だった。

デイリースポーツなどの報道によると、猪木さんは弱った姿を公開する理由について、ありのままの自分を見てもらいたいという趣旨の思いを語っていた。

なぜ闘病の姿を隠さなかったのか

プロレスラーにとって、強さや迫力は観客に見せる大切な要素である。とりわけ猪木さんは、長年にわたって「燃える闘魂」というイメージを背負ってきた。

しかし、晩年の発信では、かつてのように動けない身体や、病気と向き合う日常も公開していた。

これは、強い姿だけを見せるのではなく、病気と闘う一人の人間としての現実を共有する行為でもあった。闘病を記録することによって、同じような病気を抱える人や、その家族に向けてメッセージを届ける意味もあったと考えられる。

猪木さんのYouTube発信は、プロレスラーとしての最後の活動であると同時に、自身の人生を自分の言葉で残す取り組みでもあった。

【生涯と功績を時系列で整理】力道山との出会いから新日本プロレス創設まで

アントニオ猪木さんの人生は、プロレスラーとしての成功だけでは説明できない。ブラジル移住、力道山との出会い、新団体の創設、異種格闘技戦、政治進出という大きな転換点があった。

まずは、主要な出来事を時系列で整理する。

年月 出来事・関係者 主な意味
1943年2月20日 神奈川県横浜市で誕生 本名は猪木寛至
1957年 家族とブラジルへ移住 海外生活を経験
1960年9月30日 力道山にスカウトされ日本プロレスでデビュー プロレス人生の出発点
1962年 リングネームをアントニオ猪木に変更 現在まで知られる名前が定着
1972年1月 新日本プロレスを設立 独自のプロレス路線を確立
1972年3月6日 新日本プロレス旗揚げ戦 団体として本格始動
1976年6月26日 モハメド・アリと対戦 世界的な異種格闘技戦
1989年 スポーツ平和党を結成、参議院議員に初当選 政治活動を開始
2013年 参議院議員に再選 政界に復帰
2019年 参議院議員としての活動を終える 政界から引退
2020年7月 心アミロイドーシスの闘病を公表 病気との闘いを発信
2022年8月28日 「24時間テレビ45」に生出演 最後のテレビ生出演
2022年10月1日 心不全のため死去 享年79歳
2023年3月7日 両国国技館でお別れの会 関係者とファンが追悼

力道山にスカウトされ、プロレスの世界へ

猪木さんは1957年、14歳のときに家族とともにブラジルへ移住した。現地ではコーヒー農園などの仕事に従事していた。

人生を変えたのは、ブラジルを訪れていたプロレスラーの力道山との出会いだった。

力道山に才能を見いだされた猪木さんは、日本プロレスへの入門を決意。1960年9月30日、東京・台東区体育館でプロレスデビューを果たした。

デビュー当初は本名の猪木寛至で活動し、1962年からアントニオ猪木のリングネームを使用するようになった。

その後、数々の試合を経験し、日本を代表するプロレスラーへと成長していった。

1972年に新日本プロレスを創設

猪木さんのキャリアにおける最大の転換点の一つが、1972年の新日本プロレス創設である。

日本プロレスとの関係が変化するなかで、猪木さんは自身の理想とするプロレスを実現するため、新しい団体を立ち上げた。

1972年1月に新日本プロレスリング株式会社を設立し、同年3月6日に大田区体育館で旗揚げ戦を開催。

新日本プロレスの公式会社沿革にも、この設立と旗揚げの記録が残されている。

猪木さんが掲げたストロングスタイルは、鍛え上げられた身体、技の応酬、実力を重視する試合展開を特徴とした。団体の創設は、単なる所属先の変更ではなく、日本のプロレス文化に新しい方向性を生み出す出来事だった。

【モハメド・アリ戦と政治活動】プロレスの枠を超えた猪木の挑戦

猪木さんの知名度を世界規模に押し上げた出来事が、1976年のモハメド・アリとの異種格闘技戦だった。

さらに1989年にはスポーツ平和党を立ち上げて参議院議員に当選。リングの外でも、自身の知名度と行動力を生かした活動を展開した。

1976年6月26日、モハメド・アリとの世紀の一戦

1976年6月26日、日本武道館で実現したのが、プロレスラーのアントニオ猪木とボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリの対戦である。

当時、アリは世界的なボクシング界のスターだった。一方の猪木さんは、日本プロレス界を代表する存在。競技も戦い方も異なる2人の対決は、国際的な注目を集めた。

試合は15ラウンドを戦い抜き、結果は引き分け。ルール上の制約が大きく、猪木さんは寝た状態からアリの足を狙う戦法を取った。

この試合は当時、試合内容をめぐって賛否が分かれた。しかし、格闘技の異なる競技者が世界的な舞台で対決した歴史的な出来事として、後年も語り継がれている。

現在の総合格闘技の歴史を振り返る際にも、異種格闘技の先駆的な試みとして取り上げられることがある。

1989年、スポーツ平和党を結成して参議院議員に

1989年、猪木さんはスポーツ平和党を結成し、第15回参議院議員通常選挙に比例代表で出馬した。

そして初当選を果たし、プロレスラー出身の国会議員として大きな話題になった。

猪木さんの政治活動で特徴的だったのは、スポーツと国際交流を結びつける考え方だった。特に北朝鮮との関係では、独自の交流ルートを生かした外交活動にも取り組んだ。

その後、1995年の参議院選挙では落選したが、2013年に日本維新の会から出馬して当選し、国政に復帰した。新日本プロレスの公式発表でも、参議院議員を2期務めた経歴が紹介されている。

2019年には体調不良などを理由に次の参議院選挙への出馬を見送り、政界からの引退を表明した。

リング上で培った知名度を政治の世界に持ち込み、スポーツを通じた国際交流という独自の活動を展開したことも、猪木さんの異色の経歴を形作っている。

【最後のテレビ出演】24時間テレビで見せた闘魂と2023年のお別れの会

亡くなる直前まで、猪木さんはファンに向けて自身の姿を発信していた。その象徴的な場面が、2022年8月28日に放送された日本テレビ系「24時間テレビ45」への生出演だった。

2022年8月28日「24時間テレビ45」が最後の生出演

猪木さんの最後のテレビ生出演となったのは、2022年8月28日の「24時間テレビ45」だった。

番組では「燃える闘魂!アントニオ猪木がなぜ闘病生活を見せるのか」という企画が放送された。

猪木さんは車いすに乗って両国国技館のステージに登場。番組のメインパーソナリティーを務めていた二宮和也さんらと対面した。

体調が厳しいなかでも、おなじみの「元気ですか!元気があれば何でもできる」という言葉を披露した。

当時の報道によると、猪木さんは出演時に、次のように自身の状態を語っている。

「本当は起きられる状態じゃないんですが、みなさんとお会いすることで元気をもらっています」

日刊スポーツが伝えたこの発言には、身体が思うように動かなくても、ファンと会うことを大切にする猪木さんの姿勢が表れていた。

最後には、引退時にも披露した詩「道」を読み上げ、左拳を突き上げた。

2023年3月7日、両国国技館でお別れの会を開催

猪木さんの死去から約5か月後の2023年3月7日、東京都墨田区の両国国技館で「アントニオ猪木 お別れの会」が開催された。

主催は新日本プロレスリング株式会社と株式会社猪木元気工場。プロレス界の関係者やファンが集まり、長年にわたる功績をしのんだ。

会場にはリングが設置され、猪木さんの歴史を振り返る写真や映像が紹介された。式典では追悼の10カウントゴングも行われた。

お別れの言葉を述べたのは、坂口征二さん、藤波辰爾さん、棚橋弘至さん、古舘伊知郎さんら。プロレス界だけでなく、政治や放送の分野で関わった人々も追悼の意を示した。

新日本プロレスの公式報告では、藤波辰爾さんをはじめとする関係者の言葉や、会場に集まった多くのファンの様子が紹介されている。

猪木さんにとって両国国技館は、最後のテレビ生出演の舞台でもあった。闘病中に姿を見せた場所で、今度は多くの人々が故人を見送ったという点にも、深い意味があった。

【2026年現在のアントニオ猪木】死去後も語り継がれる功績と誤解されやすい事実

2026年11月現在、アントニオ猪木さんは2022年10月1日に亡くなってから4年1か月が経過している。

現在の猪木さんを語る際には、プロレスラーとしての実績だけでなく、新日本プロレスの創設者、異種格闘技戦の先駆者、参議院議員、そして病気と向き合った人物という複数の側面を理解する必要がある。

誤解されやすい3つのポイント

1. 死因は心アミロイドーシスだけではなく、発表上の死因は心不全

猪木さんの死因は心不全と発表された。その背景にあった病気が心アミロイドーシスであり、新日本プロレスは全身性トランスサイレチンアミロイドーシスと説明している。両者を混同しないことが大切だ。

2. 24時間テレビは最後のテレビ生出演

2022年8月28日の「24時間テレビ45」が最後のテレビ生出演として報道されている。9月21日にはYouTube用のインタビュー映像が撮影されており、テレビ出演と動画撮影は別の出来事である。

3. お別れの会は2023年3月7日に開催済み

死去後に開催予定と発表されていたお別れの会は、2023年3月7日に両国国技館で実施された。現在も開催を待っているイベントではない。

猪木さんの功績を評価する3つの視点

第一は、プロレスの興行と競技文化への貢献だ。1972年の新日本プロレス創設は、日本のプロレス史における重要な転換点となった。

第二は、競技の枠を超えた挑戦である。モハメド・アリとの対戦に象徴されるように、猪木さんはプロレスを海外のスポーツ界や格闘技界と結びつけようとした。

第三は、病気との向き合い方である。YouTubeを通じて闘病の姿を発信し、最後まで自身の言葉でファンにメッセージを届けようとした。

この3つを並べると、猪木さんの人生はリングの上だけで完結していなかったことが分かる。プロレスの枠を広げようとした挑戦は、政治活動や晩年の発信にも共通していた。

【アントニオ猪木の死去に関するよくある質問(FAQ)】

Q1:アントニオ猪木はいつ亡くなりましたか?
A1:2022年10月1日午前7時40分です。猪木元気工場の発表によると、心不全のため亡くなりました。

Q2:アントニオ猪木の享年は何歳ですか?
A2:79歳です。1943年2月20日生まれで、2022年10月1日に亡くなりました。

Q3:アントニオ猪木の死因は何ですか?
A3:死因は心不全です。背景には心アミロイドーシスがあり、新日本プロレスは全身性トランスサイレチンアミロイドーシスと公表しています。

Q4:アントニオ猪木が闘病していた病気は何ですか?
A4:心アミロイドーシスです。異常なタンパク質であるアミロイドが心臓などの組織に蓄積し、臓器の機能に影響を及ぼす病気です。

Q5:アントニオ猪木の闘病生活はYouTubeで見られますか?
A5:公式YouTubeチャンネル「最後の闘魂」で、入院中の様子やリハビリ、本人のメッセージなどが公開されていました。2022年10月2日には、亡くなる直前の9月21日に撮影された「アントニオ猪木『最期の言葉』」も公開されました。

Q6:アントニオ猪木の最後のテレビ出演はいつですか?
A6:2022年8月28日放送の日本テレビ系「24時間テレビ45」です。車いすで両国国技館のステージに登場し、「元気ですか!」の言葉を披露しました。

Q7:アントニオ猪木のお別れの会はいつ開催されましたか?
A7:2023年3月7日に東京都の両国国技館で開催されました。新日本プロレスと猪木元気工場が共同で主催しました。

Q8:アントニオ猪木の本名は何ですか?
A8:猪木寛至(いのき・かんじ)です。1943年2月20日に神奈川県横浜市で生まれました。

Q9:アントニオ猪木は新日本プロレスをいつ創設しましたか?
A9:1972年1月に新日本プロレスリング株式会社を設立し、同年3月6日に旗揚げ戦を開催しました。

Q10:アントニオ猪木とモハメド・アリの試合はいつ行われましたか?
A10:1976年6月26日、日本武道館で行われました。15ラウンドを戦い、結果は引き分けでした。

まとめ:アントニオ猪木が残した闘魂と人生の意味

アントニオ猪木さんは、2022年10月1日、心不全のため79歳で亡くなった。背景にあったのは、全身性トランスサイレチンアミロイドーシスによる心アミロイドーシスだった。

力道山にスカウトされてプロレスの世界に入り、1972年には新日本プロレスを創設。1976年のモハメド・アリ戦で世界的な注目を集め、1989年にはスポーツ平和党を結成して参議院議員に当選した。

晩年には病気と向き合いながら、YouTubeで闘病生活を公開。2022年8月28日の「24時間テレビ45」では、最後のテレビ生出演を果たした。

2023年3月7日には両国国技館でお別れの会が開催され、多くの関係者やファンがその人生を振り返った。

アントニオ猪木さんの功績を理解するには、プロレスの勝敗や名勝負だけでなく、新しい団体を立ち上げた行動力、異なる競技への挑戦、政治活動、そして最期まで自分の姿を発信し続けた闘病生活にも目を向けたい。

「燃える闘魂」という言葉が今も語り継がれる理由は、リング上の強さだけではない。人生の困難に直面しても挑戦を続け、自分の生き方を貫いた姿勢そのものにある。

2026年現在も、アントニオ猪木という存在は日本のプロレス史とスポーツ文化を振り返るうえで欠かせない人物であり続けている。