【2026年最新】和泉雅子の死去はいつ?死因や最期の経緯を解説

目次

2025年7月9日に自宅で死去、享年77歳

和泉雅子現在

和泉雅子さんは、2025年7月9日午後1時3分、東京都内の自宅で亡くなりました。

訃報が公表されたのは同年7月18日です。所属事務所が発表し、TBS NEWS DIGやテレビ朝日などの報道各社が伝えました。

亡くなった時点で77歳。1947年7月31日生まれだったため、78歳の誕生日を迎える前の旅立ちでした。

死因は、原発不明がんです。

死因の原発不明がんとは?

原発不明がんとは、がんが発生した最初の臓器や部位(原発巣)を特定できないがんを指します。

和泉さんの場合、所属事務所の発表によって病名が明らかになりましたが、具体的ながんの進行状況や詳しい治療内容などは公表されていません。

病名についての公表内容と、本人の詳しい闘病生活については分けて理解する必要があります。

最期を迎えるまでの経緯

所属事務所の説明をもとに、最期までの経過を整理すると次のようになります。

- 2025年5月: 自宅で倒れ、都内の病院に入院。
- 入院後: 治療を受けた後に退院。
- 退院後: 自宅で療養生活を送る。
- 7月9日: 体調が急変し、午後1時3分に自宅で死去。
- 7月18日: 所属事務所が訃報を発表。

亡くなる約2か月前には入院していたことが分かっています。退院後は自宅療養を続けていましたが、最後は体調が急変したとのことです。

葬儀やお別れ会は行われた?

和泉さんの葬儀・告別式は行われていません。

所属事務所によると、本人は生前葬を営んでおり、葬儀を行わないことは本人の意志によるものでした。

また、お別れ会や偲ぶ会についても予定はないと発表されています。

亡くなった後に大規模な葬儀を行うのではなく、生前に自分自身の人生を見送る機会を設けていたことは、和泉さんらしい人生の締めくくりとして印象に残ります。


【若い頃の和泉雅子】日活三人娘として吉永小百合・松原智恵子と活躍

和泉雅子さんの名前を語るうえで欠かせないのが、1960年代の日活映画での活躍です。

現在では北極点に到達した冒険家として知られることも多い和泉さんですが、芸能界での出発点は、10歳から始めた子役活動でした。

10歳で劇団若草に入り、14歳で日活へ

和泉さんは1947年7月31日、東京都銀座に生まれました。

1957年、10歳で劇団若草に入り、子役として活動を始めます。

その後、1961年に14歳で映画会社の日活に入社しました。

中学生の頃から映画の世界に身を置き、若くして青春映画のスターへと成長していきます。

日活の公式インタビューによると、1963年には和泉さんが出演する映画が14本公開されるほどの活躍を見せました。

吉永小百合・松原智恵子と日活三人娘に

和泉雅子さんは、吉永小百合さん、松原智恵子さんとともに「日活三人娘」と呼ばれました。

3人は日活を代表する人気女優として、当時の映画ファンから親しまれました。

それぞれ異なる個性を持ちながら、青春映画を中心に活躍したことが人気の背景にあります。

和泉さんは明るく活発な役柄だけでなく、家庭環境に苦しむ少女や、反抗心を抱える女性など、幅広い役を演じました。

吉永さんとは日活時代から親しい関係にあり、互いを「まあ坊」「サーネーチャン」と呼び合っていたことも、吉永さんの追悼コメントで明らかになっています。

代表作『非行少女』で演技力を高く評価される

和泉さんの代表作として知られるのが、1963年公開の映画『非行少女』です。

監督は浦山桐郎さん。和泉さんは、家庭環境に恵まれず、学校にも通わなくなった15歳の少女・若枝を演じました。

単なる青春映画ではなく、少女の孤独や葛藤、社会との関係を描いた作品です。

当時まだ10代だった和泉さんが、複雑な感情を抱える少女を演じ切ったことが高く評価されました。

同作は第3回モスクワ国際映画祭で金賞を受賞しています。

また、エランドール新人賞などの受賞歴もあり、女優としての実力を認められるきっかけとなりました。

歌手としても『二人の銀座』が大ヒット

和泉さんは映画女優だけでなく、歌手としても活動していました。

特に知られているのが、山内賢さんとのデュエット曲『二人の銀座』です。

1966年に発売された同曲は、100万枚を超える大ヒットを記録しました。

翌1967年には同名映画も公開され、和泉さんと山内さんのコンビは映画と音楽の両面で人気を集めました。


【共演者・関係者一覧】和泉雅子の女優人生を支えた人物と作品

和泉さんのキャリアを理解するには、共演者や監督との関係も重要です。

特に日活時代には、後世に残る作品を生み出した俳優や映画監督とのつながりがありました。

以下に主な人物と関係を整理します。

人物 和泉雅子さんとの関係 主な関連作品・エピソード 吉永小百合 日活三人娘の一人 日活時代から親しい間柄。互いの愛称で呼び合った。 松原智恵子 日活三人娘の一人 日活OG会などを通じた交流があった。 山内賢 映画・音楽のパートナー 『悪太郎』『二人の銀座』などで共演。 浜田光夫 映画での共演者 代表作『非行少女』で共演。 浦山桐郎 映画監督 『非行少女』を監督。 鈴木清順 映画監督 『悪太郎』などで和泉さんの魅力を引き出した。 高橋英樹 映画での共演者 『エデンの海』や『男の紋章』シリーズなどで関わった。

日活退社後も女優として活動を継続

和泉さんは1968年に日活を退社しました。

ただし、これは女優業からの引退を意味するものではありません。

その後は活動の場をテレビや舞台にも広げ、ドラマやさまざまな番組に出演しました。

日活の公式記事によると、在籍中に出演した日活映画は80本を超えています。

明るく快活な役から、内面に複雑な問題を抱えた人物まで演じ分ける器用さが、女優としての大きな特徴でした。


【冒険家としての経歴】1989年5月10日、日本人女性初の北極点到達

和泉雅子さんの人生を特別なものにしたもう一つの大きな出来事が、北極探検です。

映画スターとして人気を集めていた人物が、なぜ極寒の北極点を目指したのでしょうか。

そのきっかけは、1983年から1984年にかけて参加した南極取材でした。

南極訪問が北極点への夢につながった

1983年12月から1984年1月にかけて、和泉さんはテレビ東京系のドキュメンタリー番組の取材で南極を訪れました。

そこで目にした壮大な自然に魅了され、帰国後には地球の反対側にある北極の景色も見たいと考えるようになります。

日活の公式インタビューでは、和泉さん自身が北極への挑戦を思い立った理由を語っています。

特に印象的なのは、女優時代の経験と冒険家としての活動を切り離して考えていなかったことです。

極地への冒険はね、明るい人じゃなきゃ出来ないんです。クヨクヨする人はダメなんですよ。

これは2024年に日活のインタビューで語った言葉です。

和泉さんにとって、日活時代に身につけた前向きな姿勢は、北極探検にも通じるものでした。

1985年の初挑戦は北緯88度40分で断念

北極点到達への最初の挑戦は1985年でした。

和泉さんは自ら隊長となって遠征隊を組織し、北極点を目指します。

しかし、厳しい自然環境や氷の割れ目などに阻まれ、同年5月25日、北緯88度40分の地点で断念しました。

北極点までの距離は、残り約148キロメートル。

決して小さくない距離が残っていましたが、ここで夢を諦めることはありませんでした。

1989年、2度目の挑戦で北極点に到達

そして1989年、和泉さんは再び北極点を目指します。

2度目の挑戦では、隊員たちとともに過酷な遠征を続け、ついに1989年5月10日、日本人女性として初めて北極点への到達に成功しました。

出発から到達までに要した日数は62日間です。

1985年の失敗から4年。41歳で成し遂げた歴史的な記録でした。

この功績は、日本人女性による極地探検の歴史に残るものとなっています。

北極探検の経験を著書や講演で伝えた

和泉さんは、探検を成功させて終わりにはしませんでした。

自らの経験を著書にまとめ、講演などを通して人々に伝え続けました。

代表的な著書には次のようなものがあります。

- 『私だけの北極点 北緯88度40分』(1985年)
- 『笑ってよ、北極点』(1989年)
- 『ハロー・オーロラ! 和泉雅子写真集』(1994年)

特に『笑ってよ、北極点』は、2度目の挑戦における62日間の遠征を記録した作品です。

資金集めから隊員との関係、極地での困難まで、北極点到達の裏側を知る手がかりになります。


【晩年の和泉雅子】北海道士別市で過ごした自然豊かな暮らし

和泉さんの晩年を知るうえで注目したいのが、北海道士別市との深い縁です。

冒険家として活動していた和泉さんは、東京だけでなく北海道にも生活の拠点を持っていました。

1997年にマークン山荘を建設

週刊女性PRIMEが2025年12月に報じた追悼記事によると、和泉さんは北極点到達後も北海道士別市との関係を大切にしていました。

北極探検の準備段階でスノーモービルなどの訓練を行った場所が士別市だったことも、地域との縁につながっています。

1991年には、北極探検で使用したスノーモービルなどを士別市立博物館に寄贈しました。

さらに1997年には、士別市内に「マークン山荘」と名付けたログハウスを建てています。

東京と士別市を行き来する生活を続け、夏は約3か月、冬は12月から正月にかけて現地で過ごしていたと、士別市立博物館の元館長・水田一彦さんが証言しています。

カヌーやスキーを楽しみ、地元住民とも交流

士別での生活は、都会の芸能活動とは異なるものでした。

地元関係者の証言によると、和泉さんは夏には天塩川でカヌーによる川下りを楽しみ、釣った魚を自分で調理していました。

冬にはスキーやスノーモービルを楽しむなど、北海道ならではの自然と触れ合う生活を送っていたそうです。

また、地域住民との交流にも積極的でした。

博物館で開催されたそば作り体験に参加したり、地元の子どもたちと雪遊びをしたりすることもあったといいます。

こうしたエピソードからは、テレビや映画で見るスターとは違う、自然体の和泉さんの姿が浮かび上がります。

愛馬サラヒメとの暮らし

士別での生活を語る際に欠かせないのが、愛馬サラヒメの存在です。

和泉さんはマークン山荘近くの小屋で牝馬のサラヒメを飼っていました。

士別に滞在している間は、自分で毎日餌を与えたり、ブラッシングをしたりして世話をしていたそうです。

東京に戻っている間は、親交のあった地元住民が世話を担当していました。

2020年からの新型コロナウイルス感染拡大によって、士別に通うことが難しい時期もありましたが、その間もサラヒメを気にかけていたといいます。

コロナ禍が落ち着いてからは再び士別に通い、マークン山荘の屋根や外壁を自ら塗り直すなど、建物の修繕にも取り組んでいました。

亡くなる前の2024年8月には、山荘前で撮影された写真も残っています。

士別市の山荘は今後どうなる?

和泉さんの死後、マークン山荘の管理については、遺族の意向もあるため、今後の方針が分からないと地元関係者が語っています。

したがって、山荘が一般公開されている、あるいは観光施設として利用できるといった情報とは区別する必要があります。

和泉さんにとって士別は、単なる別荘の所在地ではありませんでした。

北極探検の準備をした場所であり、自然と向き合い、地元の人々と交流しながら自分らしい時間を過ごした大切な土地だったのです。


【2026年最新】和泉雅子の追悼特集と現在も残る功績

和泉さんの死後、映画関係者や映画ファンによる追悼企画が複数実施されました。

2026年には、映画館で代表作を振り返る特集上映も開催されています。

2026年2月、神保町シアターで追悼特集

小学館が運営する神保町シアターでは、2026年2月28日から3月13日まで、追悼企画「女優・和泉雅子」が開催されました。

企画のテーマは、天才子役、演技派、冒険家という3つの側面です。

上映作品は次の8作品でした。

作品名 公開年
『悪太郎』 1963年
『非行少女』 1963年
『おゆきさん』 1966年
『私は泣かない』 1966年
『青春の海』 1966年
『絶唱』 1966年
『終りなき命を』 1967年
『朝霧』 1968年

1960年代の作品を中心に構成され、女優としての幅広い演技をスクリーンで振り返る内容でした。

映画館で作品を上映することは、過去のスターを懐かしむだけではありません。現在の観客が、当時の映画表現や演技を新たに発見する機会にもなります。

2025年には日活も追悼企画を実施

2025年11月28日、日活は公式サイトに和泉さんを偲ぶ特集記事を掲載しました。

その中では、和泉さんが日活在籍中に80本を超える映画に出演したことや、明るい役柄から不良少女まで幅広く演じたことが紹介されています。

また、映画・チャンネルNECOでは、視聴者からのリクエストをもとに「追悼・和泉雅子~青春と冒険の人生をたどる~」という7作品の放送企画が実施されました。

日活フィルム・アーカイブでも、作品の予告編や『花嫁は十五才』の本編映像などを期間限定で配信する追悼企画が行われています。

【誤解を検証】ジャン・ギャバンが『非行少女』を絶賛したという話

和泉さんの女優人生には、興味深いエピソードも残っています。

『非行少女』の演技について、フランスの名優ジャン・ギャバンから絶賛されたという話は、長年にわたって紹介されてきました。

しかし、2025年11月に公開された日活の追悼記事では、このエピソードについて再検証が行われています。

同記事の映画評論家・轟夕起夫さんの調査によると、1963年の第3回モスクワ国際映画祭には、ジャン・ギャバンは参加していなかったようです。

当時のフランス代表審査員はジャン・マレーだったとされていますが、同氏が和泉さんを実際に称賛したことについても、確かな記録は見つかっていないと説明されています。

つまり、映画祭での金賞受賞は確認できる一方、ジャン・ギャバン本人による直接の称賛という部分は、確定した事実として扱えません。

このエピソードは、映画史に残る受賞実績と、後年に語り継がれた人物にまつわる逸話を区別するうえで興味深い事例です。

吉永小百合・松原智恵子が寄せた追悼の言葉

和泉さんの訃報を受け、日活三人娘としてともに活動した吉永小百合さんと松原智恵子さんも追悼コメントを発表しました。

吉永さんは、日活時代に和泉さんと親しく過ごした思い出を振り返っています。

休日に、目の不自由な人たちのために自宅で『銀河鉄道の夜』を録音したことも忘れられない思い出として紹介しました。

一方、松原さんは、約3年前に日活OG会で会った際、和泉さんが元気な様子で周囲を笑わせていたことを振り返りました。

長年にわたって映画界をともに歩んだ仲間の訃報は、2人にとっても大きな出来事だったことがうかがえます。


【和泉雅子の現在】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:和泉雅子さんは現在も生きていますか?

いいえ。和泉雅子さんは2025年7月9日に77歳で亡くなりました。2026年11月現在、故人です。

Q2:和泉雅子さんの死因は何ですか?

死因は原発不明がんです。2025年7月18日に所属事務所が発表しました。亡くなる約2か月前の5月には自宅で倒れて入院し、退院後は自宅療養を続けていました。

Q3:和泉雅子さんが北極点に到達したのは何年ですか?

1989年5月10日です。2度目の挑戦で、日本人女性として初めて北極点への到達に成功しました。出発から62日目の快挙でした。

Q4:和泉雅子さんと吉永小百合さん、松原智恵子さんの関係は?

3人は「日活三人娘」と呼ばれた人気女優です。1960年代の日活映画を代表する存在で、和泉さんと吉永さんは互いを愛称で呼び合うほど親しい関係でした。

Q5:和泉雅子さんは晩年、北海道に住んでいたのですか?

北海道士別市にマークン山荘というログハウスを建て、東京と行き来する生活を送っていました。夏は約3か月、冬は12月から正月にかけて士別で過ごしていたと地元関係者が証言しています。

Q6:2026年に和泉雅子さんの追悼特集は開催されましたか?

はい。2026年2月28日から3月13日まで、神保町シアターで追悼企画「女優・和泉雅子」が開催され、代表作を含む8作品が上映されました。


まとめ:和泉雅子が残した女優・冒険家としての功績

和泉雅子さんの現在を調べると、2025年7月9日に77歳で亡くなったという事実にたどり着きます。死因は原発不明がんで、所属事務所から発表された内容によると、最期は自宅で療養中に体調が急変したものでした。

しかし、和泉さんの人生は訃報だけで語り尽くせるものではありません。

10歳で子役として芸能活動を始め、14歳で日活に入社。吉永小百合さん、松原智恵子さんと日活三人娘として人気を集め、『非行少女』などの作品で演技力を発揮しました。さらに1989年には、2度目の挑戦で日本人女性初の北極点到達を成し遂げています。

晩年には北海道士別市のマークン山荘で自然と向き合い、地元の人々や愛馬サラヒメとの時間を大切にしていました。

2026年の追悼上映や日活による記録の再検証は、彼女の作品と功績を次の世代へ伝える機会になっています。

和泉雅子さんを知るうえで大切なのは、日活の人気女優という一面だけでも、北極点に到達した冒険家という一面だけでもなく、その両方を一人の人生として捉えることです。

銀幕で見せた演技、極地で成し遂げた挑戦、そして北海道で過ごした自然豊かな日々。和泉雅子さんが残した足跡は、これからも映画と冒険の歴史の中で語り継がれていくはずです。