逆鉾昭廣の生涯と2026年現在|金星7個・三賞9回、井筒親方として残した功績

目次

大相撲で「もろ差しの名人」と称され、横綱・千代の富士ら強豪力士を苦しめた元関脇・逆鉾昭廣(さかほこ あきひろ)。現役時代には金星7個、三賞9回という輝かしい実績を残し、引退後は井筒親方として後進の育成に尽力した人物だ。

2026年現在、逆鉾はすでに故人である。2019年9月16日、58歳で逝去した。弟の元関脇・寺尾との兄弟関係、父である元関脇・鶴ヶ嶺から受け継いだ相撲、そして横綱・鶴竜を育てた井筒部屋での指導など、その生涯には大相撲の歴史を語るうえで欠かせないエピソードが数多く残されている。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】

  • 現役時代:1978年初土俵、最高位は関脇。金星7個、殊勲賞5回・技能賞4回を獲得。
  • 家族と指導者としての顔:元関脇寺尾の兄であり、父・鶴ヶ嶺の相撲を受け継いだ井筒親方。横綱・鶴竜の育ての親でもある。
  • 晩年と逝去:1992年秋場所で引退後、井筒部屋を継承。2019年9月16日に58歳で逝去した。

【2026年現在】逆鉾昭廣は何をしている?プロフィールと人物像

逆鉾昭廣

逆鉾昭廣は、昭和から平成初期にかけて活躍した元大相撲力士である。引退後は年寄・井筒を襲名し、相撲部屋の師匠としても実績を残した。

逆鉾昭廣の基本プロフィール

本名は福薗好昭(ふくぞの・よしあき)。1961年6月18日生まれ、鹿児島県姶良郡加治木町(現在の姶良市)出身である。

日本相撲協会の訃報では、逝去時の年寄名を「井筒好昭」、現役時代の最高位を「元関脇・逆鉾」と記録している。つまり、逆鉾昭廣、井筒親方、福薗好昭は、いずれも同一人物を指す名前だ。

  • 四股名:逆鉾昭廣
  • 本名:福薗好昭
  • 親方名:井筒好昭
  • 生年月日:1961年6月18日
  • 出身地:鹿児島県姶良郡加治木町
  • 所属部屋:井筒部屋
  • 最高位:関脇
  • 初土俵:1978年1月場所
  • 引退:1992年秋場所
  • 逝去:2019年9月16日(58歳)

2026年現在の状況は?

2026年現在、逆鉾本人は故人であり、相撲協会での活動も行っていない。2019年9月16日に東京都内の病院で亡くなったことは、日本相撲協会が公式に発表している。

一方、逆鉾が師匠を務めた井筒部屋も、同年の親方逝去に伴って所属力士が転属し、部屋としての活動を終えた。したがって、現在も井筒部屋で弟子を指導しているという情報は正しくない。

ただし、逆鉾の指導を受けた鶴竜は、その後も相撲界に残り、2023年には音羽山親方を襲名して音羽山部屋を創設した。逆鉾が育てた力士が現在の角界で指導者として活動している点は、その功績を考えるうえで見逃せない。

【経歴・生涯年表】1978年の初土俵から関脇昇進、1992年の引退まで

逆鉾の相撲人生は1978年1月場所に始まった。父が師匠を務める井筒部屋に入門し、当初は福薗の四股名で土俵に上がっている。

1982年に逆鉾へ改名してからは、持ち前の相撲勘と速攻を武器に番付を上げ、同年九州場所で新入幕。1984年名古屋場所には新関脇へ昇進した。

逆鉾昭廣の主な経歴・年表

時期 出来事 主な実績・背景
1961年6月 誕生 鹿児島県姶良郡加治木町出身。本名は福薗好昭。
1978年1月 初土俵 福薗の四股名で井筒部屋から角界入り。
1981年7月 新十両 関取としての第一歩を踏み出す。
1982年5月 逆鉾に改名 井筒部屋ゆかりの四股名を名乗る。
1982年11月 新入幕 幕内力士として活躍を始める。
1984年7月 新関脇 最高位となる関脇へ昇進。
1987年九州場所〜1989年春場所 関脇を連続9場所務める 三役の常連として存在感を発揮。
1992年秋場所 現役引退 年寄・春日山を襲名。
1994年4月 井筒部屋を継承 父の後を継ぎ、師匠として後進を指導。
2019年9月16日 逝去 58歳。日本相撲協会が公式に発表。

特に注目したいのは、1987年九州場所から1989年春場所までの9場所連続関脇という実績だ。三役の地位を長期間維持することは、単に一度好成績を残すだけでは難しい。毎場所、上位力士との厳しい対戦を続けながら、安定した成績を残す必要があるからだ。

スポニチの当時の報道でも、逆鉾はこの時期に関脇として活躍し、人気力士の一人だったと紹介されている。

引退後は父の後を継いで井筒親方に

1992年秋場所限りで現役を引退した逆鉾は、年寄・春日山を襲名した。その後、1994年4月に父の定年に伴って井筒部屋を継承し、井筒親方として新たな人生を歩み始めた。

現役時代に培った技術と経験を、今度は若い力士に伝える立場になったのである。自らが父から受け継いだ相撲を次世代に伝えるという意味でも、井筒部屋の継承は逆鉾の人生における大きな転換点だった。

【生涯戦績を徹底解説】金星7個・三賞9回はどれほどすごい実績なのか

逆鉾昭廣の現役時代を語るうえで欠かせないのが、金星7個と三賞9回という数字である。最高位は関脇だったが、横綱を相手にした勝負強さと、技術の高さを示す実績を残している。

逆鉾の生涯戦績

  • 通算成績:551勝567敗29休
  • 幕内在位:57場所
  • 幕内連続出場:779回
  • 三役在位:16場所
  • 金星:7個
  • 三賞:9回
  • 殊勲賞:5回
  • 技能賞:4回

金星7個を獲得した勝負強さ

金星とは、平幕力士が横綱に勝ったときに与えられる特別な記録である。つまり、逆鉾の金星7個は、横綱を相手に7度の金星獲得につながる勝利を挙げたことを意味する。

大相撲では、横綱は番付の最上位に位置する。平幕力士にとって横綱との対戦は大きな壁であり、金星を獲得すること自体が容易ではない。7個という数字は、逆鉾が上位陣にとって決して油断できない存在だったことを示している。

特に横綱・千代の富士を苦しめた相撲は印象深い。圧倒的な強さを誇った横綱に対しても、逆鉾は自分の得意な形に持ち込む技術で対抗した。

殊勲賞5回・技能賞4回の評価

三賞は、幕内力士の活躍を評価する賞で、殊勲賞・敢闘賞・技能賞の3種類がある。逆鉾はそのうち殊勲賞を5回、技能賞を4回受賞した。

殊勲賞は横綱や大関を倒すなど、場所での顕著な活躍が評価される賞だ。一方、技能賞は相撲の技術面で優れた内容を示した力士に贈られる。

逆鉾の場合、この2つの賞を合計9回受賞している。強豪相手に勝つ力だけでなく、相撲の内容そのものも高く評価されていたことが分かる。

なお、金星7個は優勝回数ではなく、三賞9回も優勝9回という意味ではない。記録の意味を区別すると、逆鉾の実力をより正確に理解できる。

関脇で終えたことは不完全燃焼だったのか

逆鉾の最高位は関脇であり、大関や横綱には昇進していない。しかし、最高位だけで力士の評価を決めるのは適切ではない。

9場所連続関脇、金星7個、三賞9回という数字は、長期間にわたって幕内上位で戦い続けた証拠だ。大関昇進という肩書きには届かなかったものの、技巧派力士としての評価は高く、現役時代から独自の存在感を持っていた。

【得意技・もろ差し】逆鉾が名人と呼ばれた理由は父・鶴ヶ嶺にあった

逆鉾の代名詞といえば、何といっても「もろ差し」である。相撲に詳しくない人にとっては聞き慣れない言葉かもしれないが、逆鉾の相撲を理解するうえで最も重要な技術だ。

もろ差しとはどのような技なのか

もろ差しとは、相手の両腕の内側に自分の両腕を差し入れた状態を指す。両方の腕を相手の懐に入れることで、相手の上半身を制御しやすくなり、寄りや投げにつなげることができる。

ただし、両腕を差せば必ず勝てるわけではない。相手に上から押さえ込まれたり、巻き返されたりする危険もある。立ち合いの瞬間に相手の動きを読み、素早く懐へ入る技術が必要になる。

逆鉾はこの一連の動作が非常に巧みだった。相手に十分な体勢を作らせず、素早く両腕を差し込んで一気に攻める。その速攻こそが、もろ差しの名人と呼ばれた理由である。

父・鶴ヶ嶺から受け継いだ相撲

逆鉾の父は、元関脇の鶴ヶ嶺である。先代井筒親方として井筒部屋を率い、相撲界で実績を残した人物だった。

父ももろ差しを得意としており、逆鉾はその技術を受け継いだ。単純に同じ技を使っていたというだけではなく、相手の動きを見極めて差し込むという相撲の基本思想にも共通点があった。

報道では、逆鉾は本来左四つを得意としていたものの、まず右を差すことを狙い、そこから両腕を差し込む形を作っていたと紹介されている。

「右さえ入れば二本入る」

これは逆鉾の相撲を理解するうえで象徴的な考え方だ。力任せに相手を押し込むのではなく、最初の差し手をどう入れるかに勝負の重点を置いていたのである。

千代の富士を苦しめた技巧派の存在感

千代の富士のような強力な横綱に対して、真正面から力比べを挑めば不利になる場合もある。逆鉾は、相手の懐に入り込む技術と瞬時の判断によって、その力を発揮させない相撲を展開した。

こうした相撲は、単に体格や筋力だけでは説明できない。立ち合いの反応、手の位置、重心の移動、相手の力を利用する感覚など、複数の技術が組み合わさって成立する。

逆鉾が長く記憶される理由は、勝敗の数字だけではない。もろ差しという明確な武器を持ち、その技術で強豪と渡り合った、個性の際立つ力士だったことにある。

【家族・兄弟関係】寺尾との関係と井筒3兄弟の絆

逆鉾を語る際に欠かせないのが、弟の元関脇・寺尾との関係である。2人はともに大相撲の関脇まで昇進した実力者であり、兄弟力士としても広く知られていた。

逆鉾と寺尾は実の兄弟

逆鉾の弟は、元関脇の寺尾である。引退後は錣山親方として後進を指導した人物だ。2人は同じ父を持つ実の兄弟であり、相撲界でそれぞれ関脇に昇進した。

さらに、2人には兄の元十両・鶴嶺山がいる。父・鶴ヶ嶺のもとで育った3兄弟がそろって関取となり、当時は「井筒3兄弟」と呼ばれた。

スポニチの報道によれば、この3兄弟は史上初の3兄弟関取としても知られている。単に兄弟で同じ競技を選んだだけではなく、全員が厳しい大相撲の番付を勝ち上がった点に大きな特徴がある。

逆鉾・寺尾・鶴嶺山・鶴ヶ嶺の関係一覧

  • 父:鶴ヶ嶺(元関脇・先代井筒親方)
  • 長兄:鶴嶺山(元十両)
  • 次兄:逆鉾昭廣(元関脇・井筒親方)
  • 弟:寺尾(元関脇・元錣山親方)

父が師匠を務める井筒部屋を中心に、家族が相撲界で活躍したことは、井筒3兄弟の大きな特徴だった。

兄弟でありながら、それぞれ異なる個性

逆鉾と寺尾は同じ関脇まで昇進したが、相撲のスタイルは異なっていた。

逆鉾はもろ差しからの速攻を得意とする技巧派。一方の寺尾は、鋭い突き押しや激しい攻めで観客を沸かせた人気力士だった。

同じ家庭、同じ相撲部屋で育ちながら、異なる持ち味を磨き上げた2人。兄弟でありながら、それぞれ独自の相撲人生を築いたことも、井筒3兄弟が記憶される理由の一つである。

【井筒親方と鶴竜】師匠として横綱を育てた指導力と部屋のその後

現役引退後の逆鉾は、井筒部屋の師匠として新たな功績を残した。その代表例が、モンゴル出身の横綱・鶴竜である。

鶴竜を育てた井筒親方

鶴竜は、相撲経験がほとんどない状態で日本に渡り、井筒部屋に入門した。来日当初の体重は約65キロだったと報じられている。

当時の鶴竜は、体格面で決して恵まれていたわけではない。そこから日本の相撲に適応し、厳しい稽古を積み重ねて横綱にまで昇進した。その成長を支えた人物が逆鉾だった。

2019年9月の通夜で、鶴竜は師匠との別れについて思いを語った。デイリースポーツの報道では、鶴竜は次のように師匠を振り返っている。

「厳しく優しく育ててくれた。愛してくれた」

この言葉から伝わるのは、単に相撲の技術を教えるだけではない師弟関係だ。鶴竜にとって逆鉾は、日本で力士として成長するための指導者であり、精神面でも支えとなった存在だった。

井筒部屋は2019年にどうなったのか

逆鉾が亡くなった後、井筒部屋の存続については大きな問題が生じた。師匠が不在となったため、所属力士の今後を決める必要があったからだ。

日本相撲協会は2019年9月27日付で、井筒部屋に所属していた横綱・鶴竜、三段目・鋼、序二段・鶴大輝の3力士と床山1人について、陸奥部屋への転属を承認した。

陸奥部屋は、元大関・霧島が師匠を務めていた部屋で、井筒親方とは同じ井筒部屋出身の兄弟子に当たる関係だった。

その後、鶴竜は2021年春場所を最後に現役を引退。2023年12月27日に年寄・音羽山を襲名し、陸奥部屋から独立して音羽山部屋を創設した。

2026年現在の音羽山部屋と逆鉾の功績

2026年現在、日本相撲協会の公式部屋紹介では、音羽山親方(元横綱・鶴竜)が音羽山部屋の師匠を務めている。

ここで注意したいのは、現在の音羽山部屋が逆鉾の井筒部屋そのものではないという点だ。井筒部屋は2019年に師匠の逝去に伴って所属力士が転属し、その後、鶴竜が別途独立して音羽山部屋を創設した。

それでも、逆鉾の指導を受けた鶴竜が横綱となり、さらに後進を育てる立場になったことは、師匠としての逆鉾の功績を考えるうえで重要な意味を持つ。

現役時代の逆鉾は自らの技術で土俵を沸かせた。そして引退後は、弟子を横綱に育てることで相撲界に貢献したのである。

【死因・逝去】逆鉾昭廣はなぜ58歳で亡くなったのか

2019年9月16日、大相撲の元関脇逆鉾で井筒親方だった福薗好昭さんが、東京都内の病院で亡くなった。58歳だった。

日本相撲協会は同日付の訃報で、井筒好昭(元関脇・逆鉾)の逝去を正式に発表。本名を福薗好昭、逝去日を令和元年9月16日と記載している。

死因は膵臓がんと報道

逝去当時の報道によると、逆鉾は膵臓を患い、2019年8月から東京都内の病院に入院していた。デイリースポーツなどは膵臓がんを患っていたことを伝えている。

また、秋場所は初日から休場しており、体調が悪化していたことも報じられた。日本相撲協会の公式訃報自体には死因の記載はないが、当時の報道では膵臓がんが逝去の背景として伝えられている。

鶴竜や角界関係者が別れを惜しんだ

2019年9月24日には、東京都内の井筒部屋で時津風一門葬として通夜が営まれた。弟子の鶴竜をはじめ、八角理事長や多くの親方、力士ら約600人が参列した。

鶴竜にとって、師匠の死は大きな衝撃だった。7月の名古屋場所で6度目の優勝を果たした際に会ったのが最後となり、もっと話をしたかったという思いも語っている。

58歳という若さでの逝去は角界に大きな衝撃を与えた。現役時代の実績だけでなく、指導者としても活躍していた人物だっただけに、その早すぎる別れを惜しむ声が広がった。

【よくある質問】逆鉾昭廣の現在・経歴・家族に関するFAQ

Q1:逆鉾昭廣は2026年現在も生きていますか?
A1:いいえ。元関脇・逆鉾で井筒親方だった福薗好昭さんは、2019年9月16日に58歳で逝去しています。日本相撲協会も公式に訃報を発表しています。

Q2:逆鉾昭廣の生涯戦績や金星、三賞の数は?
A2:通算551勝567敗29休です。金星は7個、三賞は合計9回で、内訳は殊勲賞5回、技能賞4回です。最高位は関脇でした。

Q3:逆鉾と寺尾は兄弟ですか?鶴竜との関係は?
A3:寺尾は逆鉾の実弟で、兄は元十両の鶴嶺山です。3人は元関脇・鶴ヶ嶺の息子で、「井筒3兄弟」と呼ばれました。また、鶴竜は逆鉾が師匠を務めた井筒部屋の弟子で、逆鉾の指導によって横綱まで成長しました。

まとめ:逆鉾昭廣の功績は相撲技術と次世代への指導に残る

逆鉾昭廣は、1978年の初土俵から1992年の引退まで、技巧派力士として大相撲を盛り上げた元関脇である。

金星7個、三賞9回という実績に加え、9場所連続関脇という安定した活躍は、現役時代の実力を物語っている。父・鶴ヶ嶺から受け継いだもろ差しの技術は、逆鉾を象徴する最大の武器だった。

また、弟の寺尾や兄の鶴嶺山とともに井筒3兄弟として角界を彩り、引退後は井筒部屋の師匠として横綱・鶴竜を育て上げた。

2019年9月16日に58歳で逝去したものの、その功績は現役時代の記録だけにとどまらない。自らが父から受け継いだ技術を弟子へ伝え、その弟子がさらに次の世代を育てる。逆鉾昭廣の生涯は、大相撲における技術と師弟関係の継承を象徴するものだった。

2026年現在も、金星7個や三賞9回という記録、そして鶴竜を横綱に育てた師匠としての功績は、逆鉾を振り返るうえで欠かせない歴史として残っている。